投稿

老子の言葉

老子の言葉

第29章 偏らない自然な中間が大切

まさに人間は、天下をとろうと欲張って頑張りますが

私は人間が天下を取ったのを見たことがありません

天下や社会とは神様の意志を受ける容器であって

これに対して人間が何かを為そうとしたり

支配しようとしたりしても、そうはならないのです

天下に何かを為そうとする者は必ず失敗し

天下を取ろうとする者は大きなものを必ず失います

コノ世の物事というものは、人の思うままにはならないのです

誰かが天下を取ろうとすれば、同様に他者も天下を取ろうと現れます

物事には、弱い勢いの時もあれば、強い勢いの時もあります

強いモノもあれば、弱いモノもあります

育てる者もいれば、それを壊す者もいます

このような様々な状態が混ざることが自然であり

これを人間が統一することなど不可能なのです

だからこそ聖人は、やり過ぎることを避け

驕り慢心することを捨て去り、怠けることをしません

【解釈】

人間とは、自分が天下を取ったと思った瞬間から

次の崩壊が始まっているのでしょう

過去の歴史を見ても言えることであり

国や企業や個人の栄枯盛衰を見ても然りです

しかし、これを避ける、良い状態を継続させる方法が、ただ一つだけ存在します

アリストテレスやパスカルも人間は「中間を意識すること」が最善な存在だと示唆しています

釈尊がズバリと「中道」、つまりどんな物事にも偏らず執着せずに歩む生活が

悟りに至る人間の必須条件だとしました

なにやら世間を騒がせている、かの国の指導者に聞かせたいと思いますが

自分は天下を取ったと「区切り」を意識したり

中間で「いよう」などと思った瞬間から、すでにそうではないのです

自然な流れの最中に、自然で中間でいることが大切で

人間は、何かの最中に続ける限り成長をするのです

不測に立ちて無有に遊ぶ

老子曰く「不足に立ちて無有に遊ぶ」

未来を憂えない生活の指針の言葉で

何も未来を予測せずに無心でいることが一番強いことであると説いている

武道の世界で例えると

柔道でも剣道でも、試合で相手と対峙した時

相手がどんな動きをするかシュミレーションするよりも

無心でいる方がより強いものだ

予測と違った動きをされた時の反応の遅れは致命的になる

何も考えていないというのが、最も速やかに対応できる状態であり

それが強さになるということである

今の日本人の生活で例えると

仕事でも家族のスケジュールでも

誰でも計画を立てすぎているように感じることがある

いろいろなことがあまりにも細かく決まっているため

気で感じるとか、直観に頼るといった機会が少ないと感じる

「無有に遊ぶ」に込められた意味は

未来はここにはないのだから

「ないという今を遊ぶ」ということです

多くの人は、今日やるべきことが終わると

明日やることをつい引き寄せてしまいます

「明日できることは今日はやらない」

という強い信念がないと人間は休めないのです

「無有に遊ぶ」とは忙しい現代の私たちにとっても大事な教えなのです

受け身こそ最強の主体性その4

仏教では禅定が知恵を生み出すとされる

それは「戒」「定」「慧」という三つ(三学)の流れで

自分の生命エネルギーを一つの方向に向けるために

「戒」(禅を修め悪を防ぐ戒律)があり

その向った先で我をなくした状態である「定」(禅定=三昧)に入り

その無我の状態、私のいうものが全くほどけてしまった状態になった時に

最も素晴らしい「慧」(知慧)が発揮できるという理屈

これと同じ考え方が荘子においてもなされていたのです

受け身こそ最強の主体性その3

禅に「主人公」という言葉がある

中国の瑞厳和尚という方が毎日

自分に「主人公、主人公、目覚めているか」

と呼びかけ「はい」と答えたというエピソードに由来する禅語

この主人公とは、脇役に対する主人公の意味ではなく

自分の置かれた環境の中で自分を最大限に没入させることができる人

つまり、自分の意志などという人為を埋没させ

状況に完全に浸りきれる人=主体的な人格という意味

次回に続く

受け身こそ最強の主体性その2

荘子は、外側で起きる変化を全て受け容れられる柔軟性を持ってこそ

最も強い主体性が得られると説いた

変化を全て受け容れるには

あらゆる感情や判断、分別は邪魔になるので

そういうものも持たないことを勧めた

そんなことが可能なのかと思うが

じつは、この考え方には禅に大きな影響を与えている

次回に続く

受け身こそ最強の主体性

「受け身こそ最強の主体性」

この主体性というものは、荘子の最大の関心事

人はどうすれば主体的でありうるのか

荘子が説く考えは全く逆説的で

完全に受け身に徹した時こそ

それが可能になるという

これはどういうことなのか

その極意を禅との比較を交えながら読み解いてみたい

以下次回に続く

http://www.n-acp/com

人間は純朴さが大切

老子の言葉

男性的な強さを持ったうえで

女性的な母性の心を保つことができると

その人は社会の成功者となることができる

社会的な成功者となれば常に社会貢献を重ねる徳積みをおこなうと

その人は赤子にような純粋性をだんだん取り戻します

他人から見える表面的な生活だけではなく

隠れた私生活でも道徳を守っていればその人は社会の規範となる

社会的な規範の人となればさらに徳のある生活を行い

善悪も白黒もない中立的な悟りの心境に帰ることができる

大成功した生活を知った上でも底辺の生活も忘れなければ

その人は真の成功者となれます

真の成功者となれば常に徳(良心)のある心で満たされて

大自然から出る原木のように純朴な人間になります

要は、人間が成功を真に極めて至る最後の姿は

原木のような純朴な人間なのです

従って初めから純朴な人間がいれば

その人は社会に役立つ器となれるでしょう

※自分自身にも問いかけたい内容の言葉である

隠れて支えている物事を大切に

老子の言葉

重いものにはそれを支える軽いものがその根底に必ず存在する

大木を支えているのは細かい根っこであり

大国を支えているのは個々の弱い人間に過ぎない

軽いものが多く集まればこそ、大きなものを支えることが可能になる

物事を静観することで、多くの心配事や心のざわめきを操縦することができる

主人に自分がなることができる

このようなことを理解している聖人は

一日中ずっと行動していても

働いてくれる荷物を積んだ馬車の側を離れようとはしない

自分の下で働く人間や動物たちの労働のお蔭を知っており

またこれが自分の財産を守ることを知っているから

また、聖人はきらびやかな光景や豪華な宴席に迎えられても

下々の人たちのことを忘れずに超然として心が左右されることがない

ましてや一国を代表する人間は天下の物事に軽々しく左右されてはいけない

代表者の行動が軽ければそれを支える人々を失うことになる

そして、心が落ち着いていなければその立場を失うことになる

[解説]

この老子の言葉は現代社会においてもすべて当てはまる

①子供や老人たちが存在するお蔭で家庭が成り立つことを改めて知ること

②家族の小さな声にも耳を傾けること

③他家や知人たちの豪華な生活に惑わされないこと

④もしそのような栄華に惑わされて軽率な行動をとれば家庭を失うことになると知ること

大いなる母性その2

昨日の続き

老子は宇宙の四大要素として、人、大地、天、宇宙の母性を挙げている

その中に、人が入っていることの重要性とその責任を感じる

人は自分のことも、他人のことも、大切にして生きていかねばならない

それが大いなる母性を助けることになるはずだ

大いなる母性

老子の言葉

何か混沌として混じり合ったモノが宇宙の始まりに存在した

それは、天地が始まる以前から存在している

それは、静寂として独自に存在しており

新しく変わるということもなく

遍くすべてに浸透して存在している

それは、この世界を生み出した大いなる「母」と呼ぶべき存在

しかし私たちはその正体を知ることができない

だから私はこの存在を「道」と名づける

この大いなる存在は、どこまでも拡大していく

拡大していけばどこまでも遠くに達っする

そして、本当の遥か遠くに達しきれば、また縮小して戻ってくる

だから、道は大である

天も大でもある

地も大であり、人間も大である

この世には四つの大きな存在がある

人間もその重要な一つを占めている

人間は大地に沿って存在し

大地は天に沿って存在し

その天は道(大いなる母性)に沿っている

道(大いなる母性)は自然のあるがままに沿って存在している

[解釈]

二千五百年前に生きた老子が、現代宇宙物理学における宇宙誕生の仮設

「ビッグバン」を描写して説明していることは驚嘆するしかない

つまり、現代に生まれた人間にしか老子の言っている内容は理解できなかった

「無限に拡大して、達しきれば縮小に転ずる」

 陰陽論の原点がそこにある

「陽極まれば陰に転じ」「陰極まれば陽に転ずる」

この東洋医学の基本原則がそこには書かれている

老子の思想と東洋医学は深いつながりを持っている