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自分史27

開業準備の傍ら

縁があって豊田市の整形外科に勤務

リハビリ室で午前中だけで80人以上の患者さんを二人の鍼灸師が担当

整形外科疾患の臨床を大いに学ばせてもらう

レントゲン写真の読影もこの時に学んだ

外科手術の見学もさせてもらう

運動器疾患の西洋医学的な診たてや

整形外科のリハビリ室を裏側から見ることができ

開業に向けて貴重な経験となった・・・

自分史26

一度社会を経験しての再スタートは

長谷川先生という素晴らしい恩師との出会いがあって

毎日が刺激に満ちた3年間だった

国家試験は2人の中国人と共に無事終了

開業準備にとりかかった・・・

自分史25

鍼灸だけで勝負するか

マッサージも一緒にするか

意味が全く異なってくる

鍼灸治療の前後にマッサージをすることは

病気の治療というより「慰安」

それは「医療」とは乖離したもの

鍼灸単独で治療方針を決定し評価をする

そこに医療として位置づけられる意義がある

鍼灸の専門性を如何に高めるか

鍼灸師としての生き方が問われる問題だ・・・

自分史24

「鍼灸だけではたべられない」

学生時代によく聞かされた

30年前

愛知県内の鍼灸学校2校の定員は約150人

鍼灸とマッサージの資格がとれる学科で120人

僅か30人が鍼灸だけの資格を目指していた

業界としては少数派

鍼灸院と称してマッサージを取り入れているところも多かった・・・

自分史23

合格して当たり前の国家試験なので

鍼灸師になることよりも

どんな鍼灸師になるかを考えていた

残念ながら学校の教師には

理想の鍼灸師をイメージできる方はいなかった

開業するつもりで入学した同級生は

柔道整復師、あん摩マッサージ師、薬剤師、の資格取得者が7名

鍼灸の技術だけで開業を考えている同級生は殆どいない

「鍼灸だけでは食べられない」とうお粗末な理由が多かった・・・

自分史22

鍼灸学校の卒業年度になると

殆ど国家試験対策に明け暮れるが

鍼灸師の国家試験の合格率(約90%)

を知ってからは、空いた時間があれば

他の鍼灸院見学や学会、勉強会に顔を出し

自分のことより中国残留孤児の中医師の友人の国試対策に追われていた・・・

自分史21

中国残留孤児の中医師二人とは特に親しくなった

帰国して間がないため殆ど日本語はできない

専門分野の経穴の名前や解剖学的部位が

中国と日本で微妙に違うのにも面食らったようだ※

慢性化した咳を鍼治療で治してもらったことがきっかけで

親しくなり、定期試験の勉強などを日本語で教えるようになった・・・

※この問題はWHO/WPROが推進する

伝統医学における標準化作業を経て

2006年11月に標準経穴部位が合意に至って、現在は概ね解決した

自分史20

在学中にあらゆる勉強会や学会に顔を出した

名古屋で経絡治療学会学術大会が開催されたので参加した

少人数の班別での実技指導

担当の講師は全盲だった

脈診だけで証をたてて

鍼を打って脈を診る

「脈が変わりましたよ」と言われ

モデル患者の脈を診るがさっぱりわからない

中医学の緻密な病因病理の分析に比べ

脈診だけで何でも分かるという

※現在は全く違うが当時はそんな雰囲気だった

会場の雰囲気にとても違和感を覚えた

「経絡治療は肌に合わない」

鍼灸の本流はやっぱり「中医学だ」

この考えは後の「北辰会」との出会いに繋がる・・・

自分史19

在学中に東京で(公社)全日本鍼灸学会学術大会が開催され

初めて鍼灸学会に出席した

約2000人もの鍼灸の研究者、臨床家、医師らが全国から集まり

症例報告・シンポジウム・基調講演などが目白押し

学会の楽しさを知ることになる

東京まで学会に行く同級生は誰もいなかった

特に印象に残っているのは

昭和大学附属病院、東洋医学科逆子外来

逆子治療の2000例を超える症例報告は

鍼灸のエビデンスを高めるに値する研究発表だった

自分史18

当時の長谷川先生は血気盛んな30代後半

愛知県鍼灸師会や日本鍼灸師会で青年部長を務め

臨床・会務・スポーツ等、とにかく多忙を極めていたが

休日は一緒にテニスで汗を流すことも多く

公私共に大きな影響を受けることになった・・・