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古(いにしえ)の人

大古の人こそ、最高の知の所有者といえるのではなかろうか

なぜならば、かれらは自然そのままの存在であり

彼らの意識は主客未分化の、いわば混沌状態だったと考えられるからである

この混沌こそ、もっとも望ましい在り方なのではないか

時代が下ると、人びとは自己を取り巻く世界を意識しはじめた

こうして認識作用が生まれたが、客体としての事物に区別は立てなかった

さらに時代が下ると人びとは事物の区別を意識するようになったが

まだ価値概念は発生しなかった

しかし、やがて価値概念が発生するや「道」は虧なわれた

そして「道」が虧なわれると同時に、人間の”執着心”が成ったのである

≪荘子≫より抜粋

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道枢の境地

全ての存在は「あれ」と「これ」に区分される

しかしながら、あれの側からいえば、これは「あれ」であり

あれは「これ」である

つまり「あれ」なる概念は「これ」なる概念との対比において初めて成立し

「これ」なる概念は「あれ」なる概念とのはじめて成立するというのが

彼我相対の説である

相対的なものは「あれ」と「これ」に限ったわけではない

例えば生と死、可と不可、是と非、との関係もまた然り

すべて物事は相互に依存しあうと同時に排斥しあう関係にある

だからこそ聖人は、あれかこれかと選択する立場をとらず

生成変化する自然をそのまま受容しようとしたのである

≪荘子≫歳物論より抜粋

荘子の斉物論

万物はすべて斉(ひと)しい

この道理を明らかにすることによってのみ

人間は知の呪縛から解放され

無限の自由を勝ち取ることができる

荘子の語る≪斉物論≫は

人間不在の矛盾に対する苦渋に満ちた省察と

犀利な認識論とによって

荘子哲学の基幹をなすものである

≪荘子・斉物論≫より抜粋

『荘子』は紀元前4世紀の思想家「荘周」の著作とされる書である

彼は『老子』とともに”荘老”と称され

儒家、墨家と鼎立(ていりつ)する道家の中心的思想家とされている

弱肉強食の乱世に生きて、人間存在の深淵を凝視した

この思想家のことばに魅了され語り継がれてきた

荘子の魅力について解釈を加えて伝えていきたい